giriのブログ

2014年1月25日 土曜日

My life story9~OSHOコミューン④「ワンネス」《覚醒 瞑想 名古屋》

OSHOが肉体を離れてちょうど半年後、1990年7月でしょうか?
大きな事件がありました。
プーナ警察が一斉に外国人(=OSHOコミューンでの滞在者や訪問者です)のパスポート、ビザのチェックを始めたことです。
というのは、プーナ警察は、お金を払うとビザの延長を認めていたのですね、それが国の方からすると非合法で、ぞういう人を認めない と言うことになったわけです。
中には、ともかく プーナにいたいので パスポートも持ってない ビザの延長もしていない そんな強者もごろごろ・・・・
最終的には、プーナ警察は、自分たちが私服を肥やすためにやっていたことでもあるので、特例措置と言うことで、どんな人でも インドの外に合法的に出る許可を出すと言うことになります・・・・
それでも、警察の捜査があったり、逮捕者が出たりの大騒動・・・
国の外に出るには、航空券もいるし・・・そんなお金のない人ばかり・・・・そんな人が何十、何百といたのでは、ないでしょうか?
多くの人は、何とかお金を用立てします。
それができない人も何人もいました。
そんな人は、変り者だったり、友達が少ない人だったりします。
自分の身を護るのに精一杯の中、多くの人たちがより大変な人たちのことを心配していました。
そして、最後には、お金を出せる人が、だれかれとなくお金を出して 国外に出る必要だった人たちは、全員外に出ました。
その人を好き嫌いとかを超えて、ケアしあう姿にとても大きな愛を感じ感動しました。

そうそう、そういえば、ぼくの友人のフランス人でラジョという日本にも長く住んだことのある人がいます。
彼は、この騒動の最中、パスポートを捨てて、フランス領事館に再発行の申請をしていました。
ちょうど夏のバカンスということで、再発行が遅れ、彼のパスポートが出来たころには、この騒ぎも治まり、新たなビザも押され、プーナ滞在を一人何食わぬ顔をして過ごしていました。

肚の座った愉快なおじさんでした。





投稿者 Banyan tree | 記事URL | コメント(0)

2014年1月24日 金曜日

My life story8~OSHOコミューン③「Osho肉体を離れる」《ヒーリング スピリチュアル 名古屋》



 
1990年1月19日、OSHOが肉体を離れます。59歳でした。
ぼくは、ミスティックローズ瞑想という3週間(1週間3時間笑い、1週間3時間泣く、1週間3時間座る)の瞑想グループの初日でした。
僕たちが瞑想をしていたスペースは、今サマディと言って、OSHOの遺灰の置かれているスペースです。
このスペースは、OSHOのベッドルームから数メートルの所にあります。
OSHOが肉体を離れたのは、午後の3時ころでしょうか?正確な時間は忘れました。
私たちが、笑っている頃、OSHOは、肉体を離れようとしていました。
そのことがとても後からショックでした。

ミスティックローズ瞑想の後、午後の時間は、絵の先生のミーラのボンベイでの個展の準備を彼女のアパートの部屋で手伝ってました。
「OSHOが、肉体を離れた。 シャワーを浴びて、ホワイトローブを着て、ブッダホールに来るように・・・」と伝えが来ました。


ブツダホールにOSHOの肉体が、コミューンの主要メンバーに運ばれてました。
そして近くにある焼き場に運ばれました。延々と人々が続きます。
焼き場で、薪がくべられ、火がつけられました。
何千もの人が、歌って踊って、夜を徹して師を見送りました。


僕にとって、まったく思ってもいないことで、ただただショックでした。

翌朝、とても不安な思いでコミューンに行きました。
「OSHOがいなくなった後、コミューンは、どうなるんだろう?」
僕にとってここだけが生きることができると感じられる場所でしたから・・・・そして多くの人にとってもそうだったでしょう・・・・

コミューンは、いつものように、静かに、いやそれ以上に より静かに存在していました。
より静かに、あたかも何もなかったように動いていました。
ゲートの中に入った瞬間、その静けさに圧倒されました。
働く人々が、あるいは、コミューンの訪問者が、より内側に入っている姿が、とても美しく 目に焼き付きました。
もう師に頼れない・・・・
自分で責任を持たないといけない・・・・
多くの人が、自分の胸にそれを刻んでいるようでした。

僕のとって、1990年1月20日の早朝のOSHOコミューンの静寂は、今も自分の中に深く残っています。

「私が死んだら、私は、私の人々の中に生き続ける。」
彼は、そんな風に言っています。
少しでもそうありたいと思います。



1月21日?OSHOの遺灰が、サマデに運ばれる時の写真です。



OSHO
Never Born
Never Died
Only  Visitd this
Planet Earth between
Dec 11 1931-Jan 19 1990

OSHO
決して生まれることなく
決して死ぬことなく
ただこの惑星地球を訪れた
1931年12月11日~1990年1月19日

彼は、「自分のことを過去形で話さないように、常に現在形で話しなさい。」と言います。
肉体を持った存在がOSHOではない、OSHOは、肉体ではなく、意識である ということですね。
私たちにとっても Who Am I? 「私は誰か?」と言う問いは、肉体や思考や感情を超えた あるいは その奥にある
何かですね。
少なくても、肉体、思考、感情の総体としての「私」から少しでも距離が取れると、少しずつ人生が変わった方向に動き出します。
ぼくが、OSHOコミューンしか生き場所はないと感じていたのは、より深い生を生きたい 本当のことを知りたい と言ったような渇望からでした。

My life story9~OSHOコミューン④「ワンネス」




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2014年1月24日 金曜日

My life story7~OSHOコミューン②「アートスペースにて」《ヒーリング スピリチュアル 名古屋》


たぶん1990年の写真だと思います。
一昨日のブログでぼくの初めて通訳したドローイングのワークショップの先生が、この長髪ひげ面のアメリカ人、ニナッドです。
(一昨年頃、体調が悪いように聞きましたが、元気でしょうか?)
ここは、当時、バンゴッホスタジオと言われ、個展をしたり、小さなワークショップをしたりに、使われていました。
ぼくは、ここでよく絵を描いていたのですが、ある日、ニナッドが、「ギリ、ワーカーパス欲しいか?」と聞きます。
コミューンで、働くと入場料が無料になるパスがもらえます。
「ところで何をしたらいいの?」
「グループのある時は、手伝って、それ以外は、、スペースの管理をしたり、絵を描いてればいいから・・・・・・」
その時は、多くのビジターが来て、ワークショップが頻繁に行われる冬の時期を過ぎていたので基本的に暇だったんですね・・
そんな風にして、コミューンのワーカーになりました。
規則では、1日6時間働くことになっているので、ちょっと後ろめたかったのですが、これも存在から与えられたものと思って喜んで受け取りました。
ある日、「ギリ、スタジオの掃除してる?」と聞かれたので、
「やってるよ。」と答えると
「ギリは、掃除の仕方知らないんだ~」と言って、「掃除は、隅からはくんだよ。」 と言って教えてくれました。
こういうことを、罪悪感を感じさせることなく、本当に無邪気にできる彼の態度に「こいつ、すごいな~」と、とても感動しました。
ぼくのことを少しでも知っている人は、「ギリはまだ掃除の仕方知らないよね~」と笑うでしょうね・・・・・
 

 
バンゴッホスタジオの向かいにあったアートワークショップスペース・・・・・友達が来て絵を描いてました・・・


ある日、バンゴッホスタジオで、ニナッドが個展をしていました。その向かいのスペースで絵を描いていた仲間が、
冗談に、「ライブ・エクシビション」と書きました。
ニナッドの個展を見に来た人がみんなこっちに流れて・・・「僕のは、デッドエクシビションか?」なんて言って笑ってました。
そうそう、後ろの真ん中にいるのが、ニナッドの双子の兄弟、ギテッシュ、左横が、ビマールと言って、OSHOが話すジョークねた
作る係り、右隣が、ミラレパ、ミュージシャン、彼もよくOSHOの講話やジョークに登場します。
前の列のおさげの女性が、シャンティ、ギリのインドでの最初のガールフレンドです。彼女がサンパティの親友でサンパティ(ギリのしているクリスタルワーク、トランスミッション・オブ・ライトの創始者)と友達になりました。
90年代初頭、OSHOコミューンは、まだとても牧歌的でした。
 

 
これは、OSHOコミューンでの最初の個展(コミューンの中で陶芸をしている日本人陶芸家の展示会に声をかけてもらって絵を展示しました)
絵を描きだして6ヶ月です。最初の個展と今まで威張ってましたけど、後ろの絵は、まだ絵になっていよね~、この時の作品、ノーマインド(無心)のスペースから生まれているのと、あれやこれや迷っている作品、入り混じってますね・・・・・
 

 
真ん中の背の高い日本人は、和尚アートユニティの江谷さん〈ガタサンサ)、その隣が、今もOSHOリゾートや世界各地で、ペインティングのトレーニングをしているミーラ、ぼくの絵の先生です。

今日、Mさんが、「一昨日のOSHOコミューンの写真どれもすごくいとおしい」と言ってくれました。
Mさんは、行ったことのない人ですけど、あの場所には、人間の本来の姿、あり方をもたらすエネルギーがあります。
それが、彼女をいとおしいと思わせるのでしょうか?
その話を聞いて、「懐かしい未来~ラダックに学ぶ」と言う映画のタイトルを思い出しました。
僕この映画観たことないのですが、すごくこの名前が記憶に残っていて、人と人があるがままで素朴で、豊かでいられる社会が、このグローバリゼーションの後にやってくるように、予感します。
あるいは、今、私たちが、そんな生き方、人間関係を創っていく時期に来ていると思います。
今、行われている都知事選で、細川さんが、「脱原発というのは、今の大量消費の社会のあり方も変えていくことだ・・・」そんなことを言ってました。とても共鳴しました。

My life story8~OSHOコミューン③「Osho肉体を離れる」
 

投稿者 Banyan tree | 記事URL | コメント(0)

2014年1月22日 水曜日

My life story6~OSHOコミューン①《ヒーリング スピリチュアル 名古屋》

こんにちは、
年末年始の慌ただしさで、大分お休みしていたMy life storyの続きです。


OSHO コミューンgateless gate、2000年代の写真でしょうか?
赤い服は、瞑想服



こちら裏門、大きな木が生い茂ってこの道(正確にはもう一本裏の道)を歩くのが大好きでした。

1989年に、当時住んでいた仙台の家を引き払ってインドのプーナに向かいました。
当時のプーナはのOSHOコミューンは、世界中から人が集まり、とても活気に満ちていました。
常時1万人程の人が来ていて、コミューンのキャンバスの中は、色んな所で工事が行われていました。


OSHOのブッダホールでの夜の講話の一場面、OSHOは、オーケストラの指揮者の様に、参加者を歓喜に導きます。
ギリも1万人の中の一人として後ろの方で、座っていました。


本当に、世界中、南北アメリカ、ヨーロッパ各国、そしてオーストリア、ニュージーランドや日本や韓国、そして台湾・・・・・
100か国以上から人が集まってました。
人間の意識の進化という観点からすると当時のOSHOコミューンは、地球の中心だったと思います。


日本では、やっと、角川のような大手の出版社から本がOSHOの本が出るようになりました。
仏陀やキリストのような人間の意識の極みに立つ存在です。
彼一人の存在が、大きな求心力を持ち、世界中から、彼の臨在を求めて人が集まりました。
多種多様な、人種、文化の中にいるというのは、とても新鮮でした。
と同時に、OSHO、OSHOコミューンと言う存在は、文化的な違いを超えた真理を求めたものでした。
覚者のもとに1万人の探求者が集い、日々瞑想が起こる場所は、人類の歴史の中でも数少ないと思います。


OSHOコミューンでしばらく過ごすうちに、ワークショップの通訳をするようになりました。
「僕が通訳必要なのに、とてもできないよ。」そんなふうに断っていたら、
「ちゃんと英語話しているでしょ?あなたで充分できるから・・・」そんな風に説得されてワークショップの通訳をするようになりました。
当時、常時何百人と日本人が来ていて、いつもどこかのワークショップで通訳が必要でした。
何十というワークショップやトレーニングを通訳として参加しました。
多くのワークショップは、通訳も参加者と同じように扱われたので、参加者と同じように学びました。
様々な瞑想コースやペインティング、ボディワーク・・・多くのことを学ばせてもらいました。
そんなふうにして、英語力もついてきました。

ある時、ライフドローイング(主にヌード・デッサンをしました)の通訳を頼まれました。
小学校、中学校、美術の時間は、大の苦手、上手に形が描けないので、不得意でした。
まだ、コミューンに来たての頃、絵のワークショップの通訳をするのは、勇気がいりました。
多くの場合、通訳で入っても、参加者と同じような扱いを受けて、ワークショップに参加できるのが当時のやり方でした。
先生役のニナッド(アメリカ人のアーティストでその後とても仲良しの友達になりました)が、ぼくの絵を見に来て、「もっと思い切って線を描きな!」そんなふうにアドバイスをくれました。
ティ―ブレイクの時、窓から見る外の木々や気の葉が、すっかり違って見えました。
緑がより緑で、木の枝のフォルムが、生き生きとして動いているかのように感じられたのをとても鮮明に覚えています。
これから、日本人の絵のワークショップの通訳は、いつの間にか、ぼくの仕事になり、クリエイティブアートという部門で、働くようになります。
OSHOコミューンには、マルチバーシティという組織があって、そこに、いろんなワークショップやトレーニングが行われていました。
そこの一つの部門が、クリエイティブアート、創造的芸術学部とでも訳するのでしょうか?
クリエイティブアートには、当時何人ものアーティストがいました。そのうちの一人が、日本人の女性アーティスト・ミーラです。
1988年の頃、OSHOは、禅についての集中的な講話をします・・・臨在や道元等のシリーズの講話です。OSHOの日々行われる講話を聴いて、絵にして、それをOSHOが、講評するというようなマスターからの指導をミーラは、受けていました。
彼女の絵の深みと小気味よさは、OSHOに鍛えられたもののようです。
2~3年の間、このミーラの助手をさせてもらいました。

そんなふうにして、絵と出会って、89年~91年2年間引き続いてインドに滞在しましたが、このプーナでの最初の2年間は、もっぱら絵を描いて過ごしました。



1990年代後半でしょうか?凄いひげもじゃ!!!!当時、日本人と思っていない人たくさんいたようです。




コミューンの中のスイミングプール、春や夏には、木々の花が水面に落ちて浮かびます。
僕が知っている世界中で一番美しいスィミングプールです。



プールと同じ敷地内にあるジャグジー、アクアフローティングのグループの打ち上げパーティ


もう一つ、OSHOコミューンの中で、大好きな場所、サマディ。OSHOの遺灰が収められていて瞑想スペースになっています。
朝の7時半~8時半がここで座る瞑想の時間。
6時~7時ダイナミック瞑想をして急いでシャワーを浴びてサマディで座る。
大好きな朝のOSHOコミューンでの過ごし方でした。

思いつくまま、OSHOコミューンのことを書きました。
1989年から~2001年多くの時をここで過ごしました。
他にいたい場所はなかったので、他に選択の余地はなく、お金が無くなると日本やヨーロッパに出稼ぎに出て またインドに戻るという生活を繰り返しました。
一般的な日本社会で過ごす、30歳、40歳の台生き方とは、全く違った生活の仕方、生き方です。
こういう生き方しかできなかったのですが、今思い出すと、よくこんなふうにできたなあ と思います。
僕にとって、人生に大事なことは、すべてここで学んだ そんな感じです。

また、思いつくまま続きを書きたいと思います。

giriのアートサイト artoflight.info

OSHO Resort   http://www.osho.com/ja

my life stpry⑦~アートスペースにて

投稿者 Banyan tree | 記事URL | コメント(0)

2014年1月22日 水曜日

無理しなくても大丈夫~覚醒のフィールドリーディング《クリスタル ヒーリング 名古屋》


神戸三宮LIFEでの覚醒のフィ―ルドのセッションをしました。
現在の競争社会、多くの人が、生き延びる為のプレッシャーを感じながら生きていると思います。
そんな私たちに、とても参考になるリーディングでした。ご本人の了解をいただいて匿名でシェアさせていただきます。

Tさんは、43歳のインテリアデザイナー、濃い目の茶系統の服に、黄色っぽいソックス、目立たないこだわりの美意識を感じさせる女性です。
3年前に会社勤めをやめて、フリーで、ハウスメーカーの仕事を委託で受けて働いています。
フリーになったのは、Tさんにとって思い切った大進歩、はじめのころは、1月に7つも8つもの家の仕事を頼まれて仕事をしていたそうです。
最近は、1月4つ位、だんだん、仕事も断れるようになって、自分のペースで仕事ができるようになったそうです。
それでも、他の同僚のように、「このうちは、自分がしたい」「これは、いや」とか自己主張するのは苦手・・・本当に、好きな仕事をするには、自分で事務所を立ち上げて、自分の旗を高く掲げ、営業して仕事を取ってくる・・・・そうしないといけないけど・・・どうもそんなに自己主張したり、競争したりするのも得意じゃない・・・
インタリアデザイナーの仕事は、大好きなんだけど・・・そんなふうに生きたり、働いたりするのが、一番自分にあっているのだろうか?
ほかの人みたいに、もっと頑張って、目立って、自己アッピールしないといけないのだろうか?
こんな疑問が、セッションを受ける動機でした。


最初カードは、今生、魂が求めているもの、生まれてきた理由です。
カードの名前は、完結、一つのサイクルが終わり、新しいサイクル、人生が始まる過度期のエネルギーです。
新しい人生に求めているもの と聞いたら、「自由」という言葉がとても力強く、Tさんの口から出てきました。
では、それを阻んでいるものは、という問いには、「両親、親に良く思われたい。それが自分を自由にするのを阻んでいる。」
両親との関係、親から受け取ったもの、無意識に受け取ってきた「こうあるべき」「こうしないと愛されない」・・・・これは、多くの人が持つ課題ですね。
Tさんは、「いい子」からすこしずつ自由になり、自分が本当に求めている生き方に近づいていきます。


2番目のカードは、そのサポートになるエネルギーです。
カードの名前は、「無為」。
何もしないでくつろぎ、自分自身の中心、に出会います。
自分自身の中心は、宇宙の中心です。そこからやってくるエネルギーに身を任します。
究極のリラクゼーション・・・頑張るのとは、正反対・・・何もなさず本当の自分、自分の中心にくつろぐこと・・・・一番むずかしいことかもしれませんが、答えは、外にではなく、自分の中にある・・・競争社会の中で、負けないように、落ちこぼれないように、頑張って、目立って、自己アッピールして・・・・というとは正反対の方向が、Tさんが自由になるためのサポートです。
興味深いですね・・・


3番目のカードは 現在のエネルギー
「蜜の収穫」このカードは、蓮の花のようですよね、泥に根を降ろし、水に揺られ、風に吹かれ、太陽の陽を浴びて・・・いろいろな要素、栄養が集まって初めてハスは花を咲かすことができます。
人生も苦しいことも、楽しいことも、つらいことも、いろんな経験があって、そのいいもの、エッセンスが集積されて、新しい質に変容して花開います。
いろんな経験、知恵を集めて、濾過し、変容を待ゆときです。


4番目のカードは、近い未来。
「純粋なる意識」
天につながり、光をを集めます。
神の意志、その光で物を見る力が生まれます。
自分にとって、大事なこと、必要なことがその光で明晰になります。
本当に自分らしい働き方、生き方、自由な生き方、仕事の仕方が、より明確になります。

いまの競争社会の中で、頑張って、自分を磨いて、自己アッピールして生き残る、這い上がる。
勝ち組になる・・・・そんなプレッシャーの中で多くの人が生きていると思います。
僕にもよくわかります。
そんな中で、Tさんの迷い、疑問は、多くの人の抱えている課題だと思います。
とても興味深いリーデイングでした。
Tさんありがとうございました。

PS.Tさんがフリーになったのは、3年前に結婚なさったっことに関係があります。
理解のある伴侶に恵まれ、経済的にも安定して、自分一人で、自分を守っていかないといけない というプレッシャーから解放され、経済的には不安定なフリーになれたそうです。
理解しあい、支えあえるパートナーがいることは、素敵なことですね。

投稿者 Banyan tree | 記事URL | コメント(0)

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